言葉をめぐる旅 plus CRT-D

じぶんの病気の付き合い方を考えるブログ

言葉そのもの [入院 #26]

失語症を発症して、かなの五十音をそらで言えなくなった。毎日病室で、五十音表を見て文字を読み上げる。同室の患者に迷惑にならないよう小さい声を出す。私の頭の中の入っている文字の記憶は何処へいったのだろう。すべて忘れているわけではないが、記憶の中のかな文字を取り出すことができない。五十音を暗唱すること自体、幼年時、それを行ったかどうか全く記憶にない。日常使っている言葉を意識せず使っていたこと、つまり当たり前の言葉の記憶を引き出せないのだ。五十音を暗唱するという、まるで母国語が母国語でないような感覚にみまわれるが、それでも一から覚え直す事がリハビリとして必要であった。言語聴覚療法で、単語内の文字の並び順を正確に呼び出すようなリハビリが行われた。例えば、「こいのぼり」という単語を療法士が口頭で言ってから、四番目の文字を言ってください、というような質問をされる。頭の中に 「こいのぼり」が表出できていないと、その四番目の文字「ぼ」を言うことができない。リハビリが行われた当初は、単語の文字が頭の中に思い描けず、答えるのに苦心した。言葉そのものをイメージすることが頭の中の負荷となり、頭の回転が阻害されるようだ。記憶の中の文字を拾う作業は、脳梗塞になってから難しさを感じることであるが、ある種の光景の記憶を思い出す作業とは似ていず、そこに病気の辛さがある。言葉を光景のイメージのように、おぼろげながら見ることはできない。言葉そのものを思い出しながら、なんらかを閃く、そんな感覚だ。